これまでリクルートで15年間以上人材紹介事業で活躍し、37歳にしてカナダへ語学留学。シンガポール、タイでは社長を経験。現在、タイの人材紹介会社・Asian Leaders CareerのCEOである蒲原隆さんにお話を伺ってきました。蒲原さんが訴えるグローバルリーダーの必要性、日本人とタイ人の働き方の違い、37歳での語学留学・インターンシップ、シンガポールでの挫折など、たっぷりお話を聞くことができました。3回にわたってお届けしていきます。
第3回目は、カナダへ語学留学、シンガポールへ転勤されたお話をご紹介します。
37歳でカナダへ語学留学。同僚からは「もうお前のキャリアは終わった」。
– 蒲原さんは37歳の時に、これまでの日本のキャリアを一度リセットされて、カナダのバンクーバーへ語学留学されました。そもそもなぜ英語を勉強しようと思ったのか、30代後半でキャリアをリセットされた理由を教えてください。
英語のきっかけは何かといったら、もちろん受験勉強で英語はやっています。英語は科目としては好きでしたが、将来英語を使って何かやりたいとか、外資とかに行きたいとか、そういうのはまったくありませんでした。2000年に英会話のAEONの溝ノ口校に入ったんですが、そのきっかけは純粋になんとなく、非日常の空間が欲しいというか、気晴らしに近い。英会話クラスに集まる人たちは、自分の会社以外の人たちになるわけです。なんとなく合コン気分というか(笑)。そこに集まった仲間に僕は恵まれました。富士通の人がいたり、NTTの人がいたりとかして。じゃあちょっと飲みに行きましょうとなり、仲がいいグループになったんです。そうすると続くんですね、楽しいから。単に英語だけだと続かないですけど、「あいつらと会って、また今日もお茶でもしようかな」って、楽しみとセットになると苦痛ではなくなります。それがAEON溝ノ口校のグループレッスン。
当時、物は試しで僕もTOEIC を受けました。確か560か570点だったと思います
英語を勉強する仲間といるのが面白くて。僕は割とハマりやすい性格なので、それから海外に、英語圏に住みたくなってきた。それもあってリクルートエージェントを2003年に辞めました。当時37歳ですね。リクルートの仲間たちが送別会をしてくれましたが、そこで酷評(笑)。「お前さぁ、MBAとかならわかるけど、今から語学留学?37歳で?ごめん、お前のキャリア終わったわ」と。みんな人材コンサルタントをやっているから、キャリアにはシビアなわけです。人材コンサルタントのものさしで見たら最もやってはいけないことですから。
普通、次の仕事を見つけてから転職したりだとか、いろいろスタンダードがあるわけです。僕の場合は単に辞めて、しかも語学留学。こいつ転げ落ちるなと。俺はお前のために言ってんだよと、いろいろアドバイスしてくれるんです。それに、「俺も本当はやりたかったんだよね」とかいう人もいたんですよね。じゃあやればいいじゃんと。誰も何も規制されてないのに、やらないっていうのが本当のところでしょう。なんかこう、どこかでアドバイスしてくれる反面、ジェラシーがある。お前いいな、と。二つ目は、彼らがやっていないことを僕がやって成功しちゃうと、自分がマウント取れないんですよ。やっぱマウントをとっていたいんですよね、自分の生き方を。「海外いいなと思いながらも、今の仕事に没頭することによって勝ち組になれた」みたいな形にしたい。そこから外れて、夢を追いかけている人に成功して欲しくない。逆にマウント取られるから。自分の知らない世界を実現されてしまうと。そういうのを感じました。そこでまあ僕は、「みなさん、ありがとう。人生一回きりだし、ちょっと住みたいので行ってきます」と。まあなんとかなるだろうと思って、それで行きました。
– 留学地にカナダのバンクーバーを選んだのはなぜでしょうか?
当初はアメリカに行こうと思っていました。なんとなく英語の本場はアメリカだと思って。でも、当時は戦争か何かでちょっときな臭い状態でした。今からしてみれば大したことはなかったのかもしれないけど、海外初心者だったから、ビビり始めたんです。それでとある留学斡旋会社に行きました。そこの担当の方に、カナダを勧められたんですね。カナダってものすごく寒いイメージでしたが、バンクーバーはそうでもないということを言われて、調べたら、確かにそんなに寒くない。アメリカも近いし、英語も比較的きれいだし、治安もいいということで、バンクーバーに決めました。
– バンクーバーでの語学学校生活はいかがでしたか?
向こうの語学学校に入ったら、クラスメイトはそれこそ19歳から25歳ぐらいで、37歳は僕だけ。そんなところにポンと放り込まれて。ただ今でも感謝しているのは、そこでも仲間に恵まれた。年齢は17歳も違うけど、そこで出会ったらクラスメイトだから。「タカシ、一緒飲みに行こう」みたいな感じで。これも心地いいなと。さっきのAEONと一緒で、その環境のおかげで英語が続けられる。ライフが楽しいと続けられる。それと同時に、やはりいい歳して行っているのでしっかり英語をやろうと思っていました。語学学校での勉強を復習したりして、真面目にやりましたね。身につかないと学校に行っている意味がないので、とにかく身につけようと。
語学力を測るとすればやはりTOEICだろうということで、あえてTOEIC 用の勉強もして、留学の最後はTOEICの点数をあげにいって、最後は845点でした。躍起になって900までいこうとは思わなかったですけれども。
– 語学学校を卒業後、現地の人材紹介のインターンシップも経験されたそうですが、印象的なことはありましたか?
語学学校がインターンを紹介してくれることになり、バンクーバーのGoldbeck Recruitingという小さい人材紹介会社に、無給のインターンで入社させてもらいました。僕も人材紹介をやっていたので、カナダでも似ている部分があったり、違うこともあったりしました。日本だとCandidateは大事に扱うのに、カナダの場合はそうではなかったり。例えば、社長がある求人のために候補者を呼ぶわけです。2、3分話して駄目だと思ったら、もう早く帰れと。『おいタク、お前ちょっと送り迎えしてこい。』え?俺がやるの?って(笑)。Candidateもプンプンしていたので “sorry” とか言ってね。会社も大手じゃないので、求人に合わなかったら社長もやっていられないんですよ。合わない人には時間を取っていられない。そんなこともあって、日本との似ているところ、違うところがあるんだなと思って。いい勉強になりました。
当時はMonster. comというサイトが強かった。今はIndeedが強いですけど。北米の求人サイトの先駆けで。ドーンとレジュメがあって、そこから探したりするんですよね。面白かったのは、例えばあるコンサルタントから「タク、ちょっとサーチしてくれ」と。あるインダストリーがあって、それに合わせて探すわけです。バンクーバーのポジションで。探して、見つけたと思って持っていくと『タクさぁ、確かにRequirementはぴったりだよ。でも住んでいるところがトロントじゃないか?』「え?無理ですか?」『無理に決まってだろう!』と(笑)。日本の横浜~東京みたいなのとは違って、めちゃくちゃ広い国だから通うとかありえない。国が違うくらいの距離なわけですから。でも最終的には慣れて、『タクよくわかってきたね』と。やはりその時に、自分は人材の仕事が好きなんだと、もう一回思い直しました。留学前は期間を決めずに行ったんですけど、最終的に9ヶ月間ぐらい。インターンもちょっとやって、TOEICも845取ったし、もう1回就職しようと思って日本に帰りました。
– 日本に帰国後されてからは、またリクルートにお戻りになった。
日本に帰国してからいろんなところにレジュメを送ったんですね。例えばJACとか、パソナとか。求人をしていないところにも送りました。その時も実はJAC シンガポールから内定をもらっていました。でも結局、申し訳ないけどお断りして、リクルートエグゼクティブエージェントに入った。一回リクルートを辞めたけど、結局またリクルートに入りました。その代わりエグゼクティブエージェントという経営幹部向けの求人です。周りからはリクルートに戻ったことが安全パイのように思われていましたが、実は僕にとっては一番チャレンジングな選択肢でした。社長から求人を頂いたり、転職をするっていうのは僕はやったことがなかった。経営幹部の人を担当したこともないし、幹部の候補者のネットワークなんか何もない。「さあどうぞ蒲ちゃん、やってください」と。引継ぎも何もないところから、一からだった。でも、3ヶ月、半年でクビと言われてもいいから、ちょっとやってみようと。で、案の定、最初は全然売上が上がらなかった。「やばい、本当にクビか」と思った時に、たまたま、奇跡的に大きいのが決まり、そこから何となくうまく乗っていきました。
– リクルートに戻られてからは、英語を使う機会はどうでしたか?
その時はまったく英語を使っていないです。ただ幹部を扱うから、駐在でフィリピンにいましたとか、海外事業責任者とか、そういう人に会う機会があった。もちろん日本人だから日本語で会話をする。でも自分自身は直近までカナダにいて、英語をそこそこ勉強して、そういう人たちの刺激も受けて、海外で仕事をしてみるというのも捨てきれないなと、彼らの話を聞いて思っていました。そこからですね。グローバル、事業責任者、リーダーというのが自分の中にガーっと湧き上がってきた。人の話を聞くことでそのシャワーを浴びたんです。疑似体験できたんですね。「ああ、リーダーってこんなこと考えてやっているんだ」と。前は、「上はわかってないな」なんて言っていたけど、実は「わかったうえで、あえてやってなかったんだな」と。そうすると、一回自分でやってみたいという気持ちが出てきました。
おかげさまでリクルートエグゼクティブエージェントの時に実績を出したので、リーダーにはなれた。No. 2ぐらいにはなれたんですね。まあ小さな会社ですけど、リーダー経験はさせてもらった。でもリクルートは当時、海外へは全然出ていなくて、リクルートエグゼクティブエージェントの上司の松園さんという方が、ヘッドハントされてJACジャパンの社長になった。それからずっと、「カモちゃん、うちに来なよ。海外の仕事あるから」と。僕も機嫌よくリクルートエグゼクティブをやっていましたが、「確かに海外もやってみたいな」と思っていたので、転職しました。
ちょっと英語の勉強に話戻りますけど、リクルートエグゼクティブの時、仕事上では英語を使わなかったんだけど、バンクーバーで養った英語力が下がるのが嫌だった。でも仕事で帰りが遅くなったりするので、学校には通っていられない。そこで、チューターを探すことにしました。チューターを見つけるサイトで、「霞ヶ関ビルに火曜日の夜7時から8時に来てくれる人」とかで検索して。それからは、夜の7時から8時までちょっと会社を抜けて、近くのカフェでレッスンをしてまた仕事に戻る、ということをしていました。個人レッスンをする時には必ず録音するようにしていました。そうじゃないとダダ漏れで、全然身につかないと思ったので。チューターとの会話を録音して、週末土曜日お気に入りのカフェに行って録音をもう1回聞く。自分の会話を聞いて「こういう表現ができたな」とか、知らない単語を調べるとか。話してる時に知らない単語が出てきて、いちいち調べているとその度に会話が止まる。そうすると会話の流れができないので、知らなくてもとにかく喋り続けるんですね。でも録音していれば後で調べられるじゃないですか。その時に気付いたんですね。自分は単語を知らないと。それを痛感しました。なので、知らない単語をノートに書いてもう1回Absorbする、この組み合わせで。日常では英語を使わなかったけれど、そのおかげで自分の英語力をキープできたと思います。それが楽しかったからこそ、英語を本当に使って、本格的にビジネスをしたい、海外で行ってみたいという思いがさらに高まって、JACに入りました。
シンガポールで英語が通じない。たった一ヵ月で挫折を味わう
2009年にまずジャパンに入った。JACというのはインターナショナルで、部下に青い目をした人がいたりする。僕にとっては初めての体験で。その時なInternational DivisionのDivision長をやらせてもらった。例えば、日本にある外資のスタートアップなんかは英語しか喋れない人たちが来ているので、そこで求人をもらって決める、というようなことをやらせてもらった。
ジャパンにいたのは1年だけど、その後晴れてシンガポールとタイに行くことになります。2010年にシンガポール行った時は、執行役員とマネージャーの間くらいの役職で。ただ、念願叶って行ったはずなのに、英語ができなくて本当に辛かった。シングリッシュ(シンガポールなまりの英語)がとにかくわからない。マジで。「俺が今まで勉強していたのと違うぞ!?」みたいな(笑)。でもシンガポリアンはネイティブだと思っているので、遠慮しないんですね。『英語がわからない日本人が来たな』ぐらいの勢いで。どんどん会議は進んでいく。『タクどう思う?』のって言われて、「ちょっとごめん、なんの会話しているの?」ってなってしまう。ダサいじゃなんですか。これは単に自分の英語力がないのか、シングリッシュが特殊で聞き取れないのか…とにかく自信喪失しました。
今でも覚えています。あんなに念願で、自分で希望してシンガポールに行ったのに、毎日辛すぎて。1ヶ月後ぐらいに奥さんに「ごめん。望んできたけど、続けられんわ。帰ろうかな」って。奥さんもいい迷惑ですよね。子供はいないから身軽だとは言え、一生懸命ついて来てくれたのに。でもその時彼女が言ったんです。『Take it easyだよ』って。ロジックで反論されたら僕も反発していたと思うけど、ザクっと言ってくれて。彼女も不安だったと思います。でも、その“Take it easy”に救われたんです。それに今もすごく感謝しています。そうだなって。このまま辛くても、いったん時が流れるのを待つだけでも、何か変わるかもしれないと思って。辛かったんだけど、改善の手も打たずに。わからんならわからんでいいやと。
それでも3ヶ月ぐらいするとちょっと慣れてきた。と同時に、オーナーから、「シンガポールで苦労してるみたいだけれども、それは仮の姿だから。何か変更があるかもしれないから、もうちょっと頑張りなさい」と。その変更って何かわからなかったんです。ただ慰めで言ってくれてるのかと思ったけど。でも環境が変わるかもしれないと、すがる思いで日々過ごしていたんです。何も改善はしていないけれど(笑)。そしたら本当に、2011年の4月からタイの社長をやりなさいと。そこから、タイで社長デビューです。
英語に関しては、結局そこから先は、現場でブラッシュアップしていかざるを得ないですよね。下手な文法でも、大事な場面で言っとかないと誤解されたまま進んじゃうじゃないですか。それが仕事じゃないですか。学校というのはある意味パッシブなので、発言を控えても、時は過ぎるんだけれども。仕事の良いところは、「今ここでどんな恥ずかしくても、言っておかないと後で自分が困る」というシチュエーションがどんどん訪れる。それによって、いい意味で「恥ずかしくない気持ち」とか、「多少下手でも言わなくちゃいけない」みたいなのが芽生える。そういう形でブラッシュアップしていく。そこからは英語の勉強というよりも、「こういう言い方するんだ」みたいなのを、メモしたりしながら仕事の中で覚えていく。後はもうビジネスて覚えて行ったっていう感じです。
海外で働く社長に必要なのは演技力
でも社長になると、今度はみんなの前で英語のスピーチをする機会が多く訪れる。これはこれで、ものすごいチャレンジなんです。例えば朝礼みたいなものもありますよね。僕が入った当時はあまり機能していなかったので、これはちゃんとやらなきゃいけないと思って。月曜日は俺がやろうと。英語に自信ないけど、自分に課そうと。それで日曜日にガンガン練習するわけです。でも、いかにも練習してますって感じでスピーチしても響かなんですよ。ちょっとかまして言わなきゃいけない(笑)。かまして言うには、記憶するくらいじゃないと当時言えなかったんですね。おどおどしながら話しているシーンを見せるわけにはいかないから。さもポケットに手を突っ込んで入っているような感じで話せるように、毎週とにかく原稿を作って暗記して。その時に、事業責任者は演技力も必要なんだと思いましたね。そこで演技力も身についた。それから頑張ってやっていって、半年くらい経つとだんだん準備しなくてもその場で思っていることを言えるようになってきたんです。やっぱり、そのポジション、仕事によって、必要に迫られるうちにどんどん身についてくるんですね。
JACというのは、ポルトガルに半年に一回行くんですよ。各国の役員が集まって、自分のところの半期の業績プレゼンする機会があって、それももちろん英語。一週間缶詰でずっと英語なんです。それも当初はビビっていたけど、プレゼンの場合は準備できるからまだいいんです。でもそれが終わったらワークショップ。経営課題だなんだっていうのをどんどんその場で話していって、一人ひとり発表する。最初はえ~と思いましたけど。でもそのポルトガルサミットも毎年行っていたらこなれてくるんですよね。ここで文法を間違えて話したって誰も指摘しないし、やっぱり何を言うか、ですから。そのあたりも、実際に海外に身を置くことで度胸がついて、英語力もついていったと思いますね。